みえないもの:写真について その2
横浜美術館の中平卓馬の作品見てきましたが、いいです。
その他に沖縄の写真も展示してあります。
恐らく倒れる前後の写真ということもあり、その対比がなんとも言えません。
一見の価値ありです。
続きとか書いちゃったんで仕方ないので書きます(笑)
写真の叙情性を排除できないという仮定に立てば、
それを撮った写真家は、その写真が持つイメージを出来るだけ客観的に捕え、
構成し、表現をする必要があります。
ここで、客観的というところが一つ大きい壁だろうと思います。
昨日の記事のとおり、自分も自分の写真が客観的に見れていない部分がありました。
それは、写真を撮った際に考えていたことや、
こう見せたいという恣意的な思いが残っているからです。
そういう思いを切り離して、客観的にどんなイメージであるかを考える必要があるんだと思います。
どれだけ自分の作品を客観的に捕えられるかが重要。
それができて、はじめて、その写真は表現をするための
一つの材料になりうるのだと思います。
さて、その材料を使って何を綴っていくかというところが、
展示のテーマというやつになるのでしょう。
展示をしようとしている写真が持つイメージを拾い出して、
某かを表現するために写真を構成していくというのが筋なんでしょう。
同じように見える黒くて暗い自分の写真。
適当に並べればそれはそれで意味を持って見えるのかもしれませんが
折角いただいた機会だし、もう一度自分の写真を見返して
その写真たちが持つイメージを今一歩掘り下げることにしました。
今まで自分が参加したグループ展の展示の前にはしていなかった作業です。
一見、無駄な作業の様な気がしますが、今思うとこのステップが大事だったと感じています。
一枚一枚の写真を客観的に整理し、さらにその写真の持つイメージを掘り下げて、
表現の材料となる写真の意味を自分の中で再整理したのでした。
ウマい例えではないかもしれませんが、
”小説”を書くには、”文字”を書けなければいけないわけです。
小説を書くのに必要な”文字”を書けるようになり、かつ、その”文字”が客観的に見て
どのような意味を持っているかを整理して、初めて文書が書ける・・・。
という感覚に近いのだと思います。
一枚の写真と向き合う必要があったコンテストというのは
そういう意味では、自分が小説を書くための文字を覚える場であったと思えてきました。
ですから、個性的だけど、文字は書けるようになった、というのが今の自分の状態なのかもしれません。
(またつづく)
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