キンサクさん
「昔ここは山だったんだよ。」
ヒロミチナカノのブルゾンを着た80歳前後のおじいさんが
にこやかな表情で話しかけてきた。
馬術競技を初めて見た僕らの興奮の様が話しやすいように見えたからかもしれない。
日曜日、友人が写真展をしている世田谷の馬事公苑に出かけた。
聞いたことはあったけれども足を運ぶのは初めて。
門をくぐるとファンファーレが聞こえてきた。
大学対抗の馬術競技の試合がまさに始まるところだった。
障害物を飛び越え、コースを走り抜ける馬のスピードはかなりの迫力。
目の前、数メートルをサラブレッドが勢い良く走り抜けるという興奮に
僕ら夫婦は都度、「おー」だの「あー」だのと声を上げていた。
「世田谷通りは砂利道だったし何もなかったんだ。俺は小学校4年の頃からここで馬に乗っていて、時々、那須あたりに出かけることがあると今でも馬に乗るんだ。」
確かに、表情や話し方を置いておけば、姿勢はスッとしていて、
足腰もまだまだしっかりしていそうだ。
ただ、馬に乗れるのかはなかなか信じがたい。
「馬に乗るにはコツがあるんだ。何より大事なのは姿勢に注意しながら、両膝でしっかり鞍を抑えること。力任せに乗っていても、振り落とされるだけなんだ。」
「馬に乗れるなんてかっこいいですね。おいくつなんですか?」
「いくつに見える?」
「65歳でしょう?」
おじいさんがニンマリとしながら握手を求めてきた。
コースで競技中の馬が、3度続けて障害物を越えることを拒んだ。
どうやら失格になってしまうようだ。
会場で放送されている解説によると、国際大会では2度の失敗で失格になるらしい。
黒毛の中型の馬で、元気があるように見えた。
元気のある馬が試合で必ず勝つわけではないようだ。
「今はみんな車に乗るから馬に乗れる人はいないだろうね。でも、車も50年間無事故無違反で表彰してもらったんだ。ホラ。」
ブルゾンの中に着ていたシャツの胸ポケットから、
書類の束を取り出し、警視庁からの証書を僕らに見せた。
キンサクさんというお名前らしい。
「50年となるとなかなか難しいよ。でも、もう車も処分してしまって、移動はタクシーなんだ。」
「都内にお住まいなら、車はなくても大丈夫ですよね。羨ましいです。」
誇らしげに話していたけれども、少しばかり寂しそうでもあった。
園内の歩道の敷石が白く照り返しの日差しが強い。
敷石の間に溜まった桜の花びらを、3歳くらいの女の子が拾い集めている。
「そろそろ天国も近づいてきてしまったからなぁ。」
「安全運転が得意でいらっしゃるようだから、これからもお元気に暮らしていかれますよ。」
キンサクさんの表情が少し和らいだ。
競技中の馬が記録を更新したようだ。会場の放送が少し興奮している。
おとなしそうに見えた馬だったけれども、
障害物を越える姿はしなやかで力強く、何もしていないときでさえ、
騎手の手綱の動きをしっかりと理解しようとしているようだ。
キンサクさんにご挨拶をして写真展へと向かった。
馬事公苑にはいろいろな桜がある。
ソメイヨシノは終わったが、八重桜はこれからのようだ。
その八重桜ですら、これから見頃のものもありそうだし、散り始めているものもある。
来週もキンサクさんは馬事公苑で楽しく過ごすのだろう。
そうあってほしいと思う4月2週目の日曜日の夜。
« 洗濯日和 | Main | 四十にして再び立つ »